日暮れて道遠しを実感させられる「論語」

 「吾十有五にして学に志す。三十にして立つ。四十にして惑わず。五十にして天命を知る。六十にして耳順がう。七十にして心の欲する所に従って、矩を踰えず」―有名な『論語』の一節だ。世に「論語読みの論語知らず」とは言えども、「論語読まずの論語知らず」ではいささか恥ずかしい。しかもゴールまであと五年というのに。

 そんな思いをなんとなく抱いていたら、地元姫路で有志の人たちが集まって論語を勉強している会があると聞き、二、三度覘いてみた。年配の男性が多いが、女性も少なくなく、みな熱心に「子曰わく」と声を合わせてあげているのはすがすがしい。渋沢栄一『論語と算盤』や内村鑑三『代表的日本人』などを副読本にして一回三時間、毎月重ね既に百回近くになっているというのは凄い。ある企業のご好意で場所をお借りし、旧知の元高等学校の校長先生が名講義を続けておられる。

 そんなことから手ほどきを受けてはいるものの、やはり難しい。勢いもっと優しいものはないか、と書店を覗いていたら谷沢永一著古谷三敏画の『知識ゼロからの論語入門』と佐久協『論語 孔子は「白熱教室」の先生だ!』が目に入り、一気に併せ読んだ。後者はNHKのテレビテキストなのだが。今まで、結局は道徳を説いているのだと、決めつけていた。宗教や思想・哲学よりも低い位置づけをしがちであった傾向が正直言ってあり、疎んじてきたことを痛烈に反省させられた。

 まして日本社会の基底部にしっかりと息づいている論語を知らずして天下国家を論じる資格はないな、とさえ思うほどだ。もっとも「朝に道を聞かば、夕べに死すとも可なり」との解釈をはじめ異説との出会いも少なくない。ここでいう道は、人生の本質的な意味あいという風に私はとらえていたのに、「正しい政治」と解釈するなど戸惑うところも多い。まさに日暮れて道遠しを実感する日々だ。

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